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「カリフォルニア毛植革命」
 
【2章-1】

 7月20日午後1時過ぎ、飛行機は成田空港に到着した。成田空港の滑走路にはゆらゆらと陽炎がたつほど暑い盛りである。 だが、ワタシは飛行機の中はむろん、成田空港に着いても帽子をかぶったままだった。なにしろ、後ろには約20㌢の長さの傷跡があり、 前から上にかけては1500カ所もの〝グサグサ跡〟である。鏡で見ると、グサグサ跡は血が固まりはじめ黒いブツブツ状になっていた。 我ながら気持ち悪くなったほどの頭だったから、帽子をとれなかったのである。
ちなみに、そのときかぶっていたカーキー色の野球帽は、ロス空港の免税店で15㌦30㌣で買ったものだった。アメリカに行く前、 今年小学2年になった息子の白い帽子を(黙って)拝借したのだが、その帽子は後ろに傷跡の血がついて汚くなってしまったのだ。 元々帽子をかぶることなどほとんどなく、汗っかきのワタシは、時々帽子をとってパタパタと頭を扇ぐものの、これだって人の見ているところではとてもやれない。 自分でも鏡に向かって「怪人ブツブツ男」などとつぶやいたぐらいだから人が見たらナンと思うか……考えると憂鬱になってくる。
空港から成田エキスプレスで新宿まで、新宿から京王線に乗り換えて自宅があるS駅に。駅から徒歩1分。我がウサギ小屋は雑居ビルの4階である。 さて、この頭を見て、女房や子どもたちはナンというか……。帽子をかぶったままドアを開けた。


「あ~、お父さんだ。お父さん帰ってきたよ~」

と駆け寄ってきたのは5歳になる娘だ。当時小学1年の息子が、

「あっ、おっとぅが帰ってきた!」

最後が小学4年の娘。

「お帰りィ。お土産は?」」

日本に帰ったのは日曜日だったため、上の子供たちもいた。

「ハイ、ただいま。お土産もちゃんと買ってきたから」


バックの中から土産物を出しながら、帽子はまだかぶったままだ。女房はむろん、子どもたちにも「アメリカで髪の毛のタネを植えてくる」と話したのだが、 まさか、こんな頭になっているとは思っていないはずだ。暑いから帽子をとりたいのだが、まだその勇気がない。


「どうだった、アメリカは? 髪の毛の手術もしたんでしょう?」

女房が帽子をかぶった頭を見ながら聞いた。

「うん、まあネ。アメリカ旅行も手術もうまくいったんだけど……ところがさぁ、結構スゴイことになっちまって… まあ、見てくれよ」

思い切って帽子をとった。子どもたちは土産物の分配で忙しく、こちらを見ていない。女房もさすがにビックリしたようだ。たじろぐように、

「えー、ナニそれ……。なんか、ブツブツがいっぱいできてるじゃない」

「なぁ、スゴイだろ? いや、手術して1週間は傷跡が気になるとは聞いていたんだけどさ、オレもまさかこうなるとは思っていなくてねぇ……」

つい言い訳めいた口調になると、長女が近くに寄ってきて、

「ねえねえ、お父さん。チョコレートは3人で分けるんだよね」

こういったまま、一瞬〝フリーズ〟した。

「なに、その頭ァ。うわーッ、気持ちワルー。ミホト(息子)、なっちゃん(次女)、来てごらん。早くっ! お父さんの頭、すっごく気持ち悪いから」

もうこうなったら仕方がない。まさか帽子をかぶったままで家にいるわけにもいかない。見せ物になる覚悟を決めた。

「ゲゲッ、気持ちわる~」

こういったのは息子で、次女のほうは一目見るなり、

「お父さん、コワ~イ」

とそばにも寄ってこない。
もうこうなりゃヤケクソだ。

「ほれぇ、怪人ブツブツ男だぞ~。オレはなぁ、子どもの肉が大好きなんだゾ~」

と両手を広げながら次女に近づくと、

「ギャー、いやぁ~」

と、本気で逃げ回るのである。
何はともあれ、家族はこうして「怪人ブツブツ男」に慣れたのだが、大変だったのはその次の日からだった。
植毛ツアーをコーディネイトしてくれた野呂さんから、

「50人に1人ぐらいですけど、植毛手術後、目の下や額が腫れることがあるんですよ。まあ、顔が腫れても2~3日すれば元通りになりますから、心配いりませんがね」

こういわれていたのだが、不幸なことにその50人の1人に当たってしまったのである。

次の日の月曜日、鏡で自分の顔を見ると、何となく腫れぼったいような感じがしたのだが、その日の夕方にはまぶたが腫れて、目が自然に閉じてしまうという状態になった。 ちょうど、試合が終わってぼこぼこに腫れたボクサーの顔に似ていた。頭は怪人ブツブツ男で、顔は試合後のボクサーだ。見るところがないというのはこのことだろう。 この日は週刊誌の締め切りだったから編集部に行かなくてはならない。だが、こんな顔ではとても外に出る気になれない。
担当編集者に、「家で書いてファクスで原稿を送ります」 と、電話で告げた。
頭は相変わらず孫悟空のわっかをつけたような違和感があったが、痛むという感じではないし気分が悪いわけでもない。原稿を書くのには差し支えがなかったのだが、 鏡を見ると書く気も失せるのでなるべく鏡を見ないようにしたほどだ。


「大丈夫なのォ。かなり腫れてるわよ」


さすがの女房も心配そうな顔で尋ねた。考えてみれば、頭にはかなりの傷を付けているのである。顔が腫れるのは仕方がないというより当たり前なのだろう。
「顔の腫れは2~3日で治る」という野呂さんの言葉を信じるしかない。



 日本に帰って3日目。火曜日になっても顔の腫れは引かないどころか、一層酷くなったような気がした。火曜日のこの日は編集部で揃えてくれた資料を取りに行かなくてはならない。だが、こんな頭と顔だ。再び編集部に電話して、


「手術の影響で、人サマにお見せできるような顔じゃなくなりましてねぇ。資料も取りにいけそうじゃないんですが……」

担当編集者に話した。その編集者は何年も先輩のTさんで、資料をうちまで届けてくれとは頼みずらかった。だが、Tさんは、自分から、

「じゃあ、オレが資料を持っていってやるよ。用事があるから夜中になると思うけど、確か家は京王線のS駅だったよね」

と申し出てくれたのである。有り難かった。まさに地獄に仏である。
Tさんはクルマで来るというので、家の近くの甲州街道で待ち合わせた。夜中12時近く、帽子を深めにかぶり、顔がパンパンに腫れた中年男が甲州街道沿いに立っているのである。街道を走るクルマの運転手が気づいたら、気味が悪かっただろう。


「お、ウメちゃん、ここだ、ここだ」

Tさんは待ち合わせの時間にほぼピッタリ来た。Tさんは資料を渡しながら、

「なんか、ずいぶん酷いんだって? どれ、見せてみなよ。あ、ホントだァ。ずいぶん腫れているねぇ」

と顔を覗き込むようにして言う。せっかくここまで来てくれたのだからというサービス精神(?)で、帽子をとって頭のブツブツも見せた。

「おわっ、こりゃすごいや。どうすんの、こんなになって……」

どうすんの、といわれてもどうしようもない。

「いや、編集部を出てくるとき、みんな、話していたんだよ。〝ウメちゃん、髪の毛が生えて、新宿かどこかの飲み屋でオダを上げてんじゃないの〟ってね。いやぁ、本当に……それどころじゃないねぇ」

「バ、バカいわないでくださいよ。ホントもう……子どもには怖がられるし、大変なんすから。それを新宿で飲んでるなんて」

と、腫れた顔の口をとがらせながらいったぐらいだ。
その日は、Tさんが届けてくれた資料をもとに原稿を書き、水曜日のもう一本の締め切りもファクスで送った。顔の腫れは野呂さんの言う通り3日で山を越えたのだが、 顔が腫れるほどの取材をして3ページの記事(アメリカ取材のレポート)じゃ割に合わない。そんな打算的な気持ちもあって、木曜日は家で《新連載企画・週刊ハゲ通信》と題した企画書を書いた。
その内容は次のようなものだった。




    《●企画趣旨 いわゆる頭髪が薄い薄毛族は、日本に約600万人、成人男子の5人に2人ともいわれている。私らハゲは、好きでこうなったのでもなく、 人に迷惑をかけたわけでもない。なのに、どうしてこんないわれなき〝侮蔑と嘲笑〟(?)を受けなくてはならないのか!? また、同士・ハゲ族たちは、 効きもしない養毛剤を次から次に試してみたり、ハゲの部分を後ろ髪で隠したりと、人知れず大変な苦労をしている。
    周囲には滑稽な努力に見えても、本人たちは心底から気にしているのであります。こんな同士・ハゲ族に、実用とハゲマシを兼ねた2ページを贈りたい。》




と、こんな内容だったのだが、これはある意味で本音でもあった。

髪の毛が薄くなるのは年をとれば仕方がないことだし、薄くなった本人に落ち度があるわけでもない。ところが、周囲は髪の毛が薄いと「カッコ悪い」という目で見るし、 本人もシュンとなってしまう。植毛取材を通して髪の毛の再生にかける人たちの苦労を身をもって知ったワタシは、ご同輩たちにエールを贈りたい気持ちになったのである。 この企画書の最後に〈本誌の体験取材で血の出るような思いをした梅ガッパ記者〉という脅しめいた署名が効いたのか(?)、『ハゲ通信』の連載はうまく採用さた。 連載開始は9月の半ばからということになった。ちなみに、この連載が決まったことを女房に告げると、一言。


「ふーん。痛い思いをしたモトを取れそうじゃない」

実はそう痛い思いもしていないのだが、何が〝モト〟なんだか……。




顔の腫れがやっと引いたのは、その週の週末だった。〝怪人ブツブツ男〟に密かな楽しみが出来たのはこのころである。頭の傷も治りはじめたのか、傷が治るときのウズ、ウズッとするような痒みを感じたので、 指の平で恐る恐る撫でてみるとブツブツはかなり堅くなっている(それまで洗髪のとき以外は、ほとんど頭を触らなかった)。これなら大丈夫とばかり、少し頭を掻いてみると、 気持ちがいいし、小さなゴマ粒のようなものがポロッと落ちてきた。つまり、傷がかさぶたになって取れはじめたのである。
読者の方もきっとご経験があるのではないだろうか。傷が治りかけてかさぶたをとるときのあの快感を。むず痒いかさぶたをめくるようにすると、少しだけ痛みはあるものの、 掻痒感が満足させられるあの気持ちの良さである。指の平でもう少し擦ってみると、ほんの少し引っかかるかさぶたがまたパラパラと落ちる。 大きさも色もまさにゴマ粒である。なにしろ、かさぶたは1500個もある(!)。
頭を擦ると、ポロッポロっと面白いように落ちるのだ。これを夢中でやっていると、突然頭の上で声がした。


「お父さんっ、ナニやってんのよ~ッ」

めざとく見つけた長女が、気味悪そうに見ている。

「いや、ほら、かさぶたが取れはじめたものだから……」

「やめてよねー。下にポロポロ落ちて汚いじゃない」

娘はしかめっ面でいう。姉の金切り声を聞いて、1年生坊主も走ってきた。

「どうしたの、ねぇ、どうしたの?」

「見てよ、お父さんを。かさぶたをポロポロ落としてんのよ~」

「かさぶたって、何なの? ボクにも見せてよ。ネェ」


ご希望に応えてもう一度指の平で頭を擦り、指先で摘むようにして息子に〝ゴマ粒〟を見せると、

「あ~、髪の毛のタネが取れたー」

と息子は目を丸くして言った。
「アメリカに髪の毛のタネを植えに行く」と聞いていた息子は、どうやらブツブツを髪の毛のタネと思っていたようなのである。

「バッカねぇ、アンタは!」

姉は弟に呆れたようにいった。

 

 日本に帰ってきて1週間目、こんな一幕もあったのだが、かさぶた取りは快感があったことはむろん、キレイな頭になるという〝実利〟もあった。娘からにらまれようと、 とても止められるものではない。日曜日に頭をしきりにゴシゴシやっていると、女房が横目に見ていった。

「まるでノミを取っているサルみたい」

だが、こんな〝努力〟のおかげで、次の週から、どうやら帽子をかぶらずに外に出られるようになった。昨年のダイアリィを見ると、翌週の火曜日(7月29日)に若い生保レディに横浜で取材をしている。 このとき帽子はかぶっていなかったはずだ。つまり、手術して10日ぐらいで〝仕事に差し支えないに頭〟になったのである。

なお、チャン先生によると、ワタシの手術後、顔が腫れる患者は大体わかるようになったという。いまはこんなタイプの患者には、あらかじめ特製のヘアバンドを渡す。 このヘアバンドをつければ、顔が腫れるということもほとんどない。このヘアバンドのことがもっと早くわかっていたらと思ったが、まさに〝後の祭り〟である。

それからさらに1週間すると夏休みになった。

【2章-2】


ちなみに、昨年の夏休みは、8月7日から16日までである。週刊誌は夏と冬、それにゴールデンウィークは合併号という形にして1週分休みにするうえ、 合併号は早めに入稿するから週刊誌記者の休みは意外に長い。しかも、昨年は差し迫った月刊誌や単行本の仕事もなかったため、夏休みを丸々使い、ここぞとばかり家族サービスに勤めた。 夏休み初日の7日は長女とその友達3人を連れてプールに行った。プールから帰ったその日に富士山の麓にある女房の実家に帰省して2泊したあと、9日には、実家に女房と長女、次女を残し、 息子と2人で帰京。翌日から群馬県で行われたサッカーの3泊4日の合宿に参加した(息子は地域のサッカーチームに所属し、ワタシは息子たち1年生チームのサブコーチ兼大人チームのキーパーをしている)。 合宿から再び東京に帰り(13日)、女房、娘たちと合流すると、翌日から家族ぐるみで付き合っているウチの子どもたちと年齢、性別まで同じ子供がいる友達夫婦と秩父に一泊旅行に行った。 その翌日はその友達夫婦の家に泊まり、16日に帰宅というハードスケジュールだったのである。


実は、今回の植毛手術では、手術の不安もさることながら、「植毛手術後、元々あった髪の毛が一旦抜けることもある」ということが最も気にかかっていた。 なにしろ、薄くなっている頭部に1500カ所も傷を付けるのである。元々あった髪の毛が抜けるのも当然なのだろうが、残り少ない髪の毛が再生するまで、 1~2カ月かかるというのである。つまり、1~2カ月は「髪の毛が手術前より少なくなる」になるわけで、この期間がなんとも耐えられないような気がしたのだ。 夏休みは、ちょうどこの髪の毛が少なくなっていた時期だった。ところが、周りの反応は、心配したワタシが拍子抜けしたぐらいだったのである。
例えば、プールに連れていった長女もそうである。
アメリカから帰り、頭のブツブツがまだ取れないとき、娘は、

「お父さん、絶対に帽子をかぶらないで外に出ないでよ!」

と、しつこいぐらいいっていたのだが、プールの付き添い役は、

「友達のお母さんが、誰か大人が一緒に行かないとダメっていうのよ。ね、お願い。一緒にいってよ」

と、自分から頼んできたぐらいなのである。なにしろ、そのころは鏡を見ても「マゲがとれた落武者」なのである。一緒に行ったプールでひと泳ぎしてみると、 さらに悪かった。ガラスに写った自分の頭は、まさしくカッパそのものなのだ。こんなお父サンでは、友達の手前、恥ずかしいのではないかと思ったのだが、 娘は、そんなことなど気にする様子もない。かえってオヤジの方が気を遣い、プールでは娘の友達にかき氷をおごるなどしてサービスに努めたほどだ。
また、髪の毛が少なくなったことに気が付かなかったのは、女房の実家でも同じである。

義母は、

「ほう、アメリカにいったのかね。髪の毛のタネを植えてきた? ふーん、アメリカっていろんなことやってるんだネェ」

と、妙な感心をした後、

「髪の毛がずいぶん抜けた? そうかねぇ……。髪の毛は前とそう変わらないよう見えるよ。まあ、髪の毛なんていつかは抜けちゃうんだから、それだけありゃ気にすることないよ」

と慰めともつかない口調でいう。
これはサッカーの合宿でも、2~3カ月ぶりで会った友人夫婦も同じだった。
サッカーの合宿に参加した子どもたちは正直だから、

「おじさん、どうしたの? 頭の毛がずいぶん少なくなったじゃない」

ぐらいはいわれるのではないかと覚悟していたのだが、これもない。

ともあれ、無毛状態になることを心配したこの時期、「髪の毛が極端に薄くなったこと」をダレも指摘しないのである。
むろん、植毛手術で元々あった髪の毛はかなり抜けていたのは確かなのである。サッカーの合宿中、宿舎で子どもたちと遊んでいるところを撮ったスナップ写真があるのだが、 これを見ると、前頭部から後頭部にかけて〝ほぼ無毛状態〟だ。まるで日焼けした海坊主のような写真に我ながらゲンナリしたほどだが、この写真と手術前に撮った写真を比べてみると、] 明らかに髪の毛の量が違うのである。ところが、周囲は「手術で髪の毛が少なくなってタイヘンだね」とはダレもいってくれない。
なかには〝気を遣って〟ナンにもいわなかった人がいたのかもしれないが、この理由にやっと思い当たった。ナンのことはない。 手術前と後で髪の毛の数が「全然違う」と思っていたのは本人だけで、周りは、ワタシの髪の毛の多寡など気づかなかったというか、気にもしていなかったのだ。 彼らにとってみれば、手術前も手術後も、ワタシは、ようするに〝薄い人〟だったというわけだ。
考えてみるとこれも腹が立つ話なのだが、本人も夏休みが終わるころには、「元々このくらいだった……かもな」と思ったぐらいだ。人のことは責められない。
ともあれ、植毛手術をためらっていた最大の理由、手術の不安(痛さ?)と術後の脱毛という問題は、意外にも簡単にクリア出来たということになる。



名古屋の野呂さんから電話が来たのは、8月の下旬だった。

「ご無沙汰してますが、髪の毛の調子はどうですか? そろそろ植えたタネがそろそろ芽を出すころなんですが」

野呂さんとはアメリカ植毛体験の記事の打ち合わせがあったのだが、ついでに、そのころ不安に思っていたことも相談に乗ってもらった。

「実はですね、まだ、頭に孫悟空のわっかをかけられているような感覚があるんですよ。まあ、はちまきを強く巻いたような感じですから、痛いというほどのことはないんですが。それと、キリッキリッッとした痛みも時々あるんです。大丈夫でしょうかね」

自身でも植毛手術を体験している野呂さんの説明は、実に明快だった。

「孫悟空のわっかというのは、まだ、はちまきを巻いたような感覚があるっていうことでしょう? 1カ月半から2カ月はその感覚があるんですよ。まあ、それも直ぐになくなります。 それと頭の痛みのほうは、あちこちにキリッとするような痛みですよね? それも気にしなくていいと思います。はちまきの感覚がなくなるころにはその痛みもなくなるでしょうから。 そんな風に感じるのは、手術をしたとき、頭の表面の神経を一緒に切ってしまうからなんですが、もう少しの辛抱ですよ」

実際、野呂さんの言うとおりだった。孫悟空のわっかの感覚ととキリッとした痛みは、2カ月ぐらいで完全になくなり、今思い返してみると、いつごろ違和感や痛みが消えたのかもハッキリ思い出せないほどなのである。 また、このとき、野呂さんから「そろそろ後頭部の抜糸をする必要がある」といわれた。※(ちなみに、抜糸は手術から2週間後だが、仕事で忙しかった)。
頭のブツブツが取れたころには髪の毛のタネのことなど心配なしにゴシゴシ洗うようになったのだが、後ろを洗うとテグスのような手術糸の手触りがあった。この糸はどうするのか気になっていたのである。

野呂サンは、

「名古屋に来てもらえば、うちで頼んでいるお医者さんもいるんですけどね。だけど、手術糸を抜くのは奥さんにでも出来ます。出ている糸をピンセットで抜けばいいだけですからね。いや、痛くも何ともありませんよ」

と教えてくれたのだが、カミさんに頼むのも何だか不安だったので、知り合いの看護婦さんに抜糸してもらった。抜糸は野呂さんの言うように痛くも何ともなく、ハサミとピンセット1本で出来る簡単なものだった。
ちなみに、ワタシ自身、この手術跡を見たことが一度もない。鏡を二つ使えば見ることが出来るが、見てもどうにもならないと思っているからだ。 抜糸してくれた看護婦さんによると、当時、傷跡は少し盛り上がり、ピンクの線のようになっていたという。


抜糸して1週間後、散髪にいったのだが、このときの床屋の反応はちょっと面白かった。3カ月に1度の割合で行く床屋のご主人には前もって、

「いつもの通り短く切ってもらいたいんですけど……後ろに手術をした傷跡があるはずなんです。いや、傷は完全に治っていますから、気をつけてもらわなくてもいいんですが」

こう話したのだが、床屋のご主人も、まさか20㌢の傷跡がついているとは思わなかったようだ。

「ああ、そうなんですか? どれどれ、えーと、どこですかね」

と、後ろの髪の毛をかき分けて調べはじめたのだが、すぐにビックリした声で、

「えっ、もしかして コ、コレですか? ず、ずいぶんスゴイ傷跡ですよ。一体どうしたんですかァ」

どうやら、よほど大きな事故をしたと思ったらしく、声をひそめるようにいった。

「交通事故か何かですか? 大変だったでしょう?」

割と親しくしているご主人だが、このときは他のお客さんも3~4人いたため、植毛手術をしたともいいずらかった。

「うん、いや、アメリカでちょっとね……」

こう誤魔化したのだが、床屋さんが驚くのも当たり前だろう。



それから6カ月。この原稿を書きながら気になったのでカミさんに見てもらうと、

「ああ、コレね。まだ傷跡があるけど、周りの(頭皮の)色と同じだからわかんないわね」

という状態になっているそうだ。 ともあれ、抜糸が終わると、何となく晴れ晴れした気分になった。なんだかんだと色々あったが、これで植毛手術のプロセスはすべて終了。 あとは生えてくるのを待つだけといいたいところだが、実は、ここにいたっても、ワタシは毛が生えるということをまだ信じ切れないでいた。 むろん、チョボチョボとは生えるのだろうが、それだって〝毛ほど〟のものだろうと思っていたのである。
わざわざ植毛先進国のアメリカに行き、チャン先生とクリニックの女性スタッフから、心をこめて植毛をしてもらった。
そして、チャン先生も

「あと半年もすれば、きっと見違えるようになる」

と保証してくれたのである。
しかも、この手術にかかる費用はいくらだとお思いだろうか? もし正規に受けると、旅費、宿泊費、手術費込みで150~200万円もかかるというのである。 むろん、この手術費用をワタシが出したわけではない。植毛体験取材は「タイアップ記事」(編集部が一般記事として取材するが、取材費用などは取材される側が負担する広告と一般記事の中間のような記事)だったため、 その手術費は野呂サンの会社が負担した。だが、なにはともあれ、このワタシの頭には200万円が投資されているのである。
「週刊誌記者は猜疑心が強く、物事を悪いほうにばかり考える」とかつて取材した人にいわれたことがあったが、まさにその通りだ。
髪の毛が生えてくることを信じられなかったのは、「いままでの取材でマトモに髪の毛が生えたケースは皆無だった」ということもある。 なにしろ、一章でも述べた通り、いまの科学では「髪の毛はどうして生えてくるのか、どうしたら脱毛をくい止められるのか」さえわかっていないのである。 いくらアメリカの最新技術をもってしても、髪の毛をフサフサにするのは難しいのではないかと思っていたのだ。
もちろん、この疑問はチャン先生にもぶつけてみた。すると、チャン先生は、この疑問にこう答えた。

「クルマの構造がわからなくても、みんな運転できますよね。この植毛手術も一緒なんですよ。つまり、どうして発毛するかはわからないけど、 どのようにすれば発毛するかはわかっているというわけです」

どのようにすれば発毛するかは、手術のプロセスが示している。ごく簡単にいえば、まだフサフサしている部分の頭皮を薄い部分に植え込むということなのである。 ただし、この頭皮は自分のものでないと難しい。

「人の頭皮を使ったらほとんど発芽しませんネ。双子の兄弟で試したケースもあるのですが、これでも50~60㌫ぐらいです。ところが、自分の頭皮なら97~99㌫生えてくるのです」

これが植毛手術のポイントというわけだが、「クルマの構造がわからなくても運転は出来る」というのはよくわかる。だが、それでも「髪の毛が生える」ということを信じ切れなかったのは、 「どのように生えるか」ということがいまひとう想像がつかなかったせいもあったのだと思う。また、3万本足りないところに5千本しか植えていないというのも今ひとつ期待できなかった理由なのかもしれない。

ともあれ、この時点ではしつこいようだが、私自身もまさか生えてくるとは思っていなかったし、それは周囲も同じだったのである。

【2章-3】

 アメリカでの植毛体験取材の記事を入稿したのは9月8日だった。このアメリカ植毛ツアーの様子は一章で書いた通りだが、当時の記事はこんな締めくくりになっている。




    《さて、この記事を書いているのは、手術して2カ月目である。そろそろ太めの髪の毛が発芽してきたようで、鏡を見ながらニヤニヤする毎日だ。まだ、

    「本当に植毛したの?」

    といわれるのだが、内心、

    「いまに見ておれよ。もう〝ハゲボーズ〟なんて呼ばせないからな!」

    という気持ちなのである。》




 ちなみに、ワタシのことを「ハゲボーズ」と呼んでいたのは息子なのだが、9月になると、それまでツルツルだった頭の手触りが、ザラっとした感触に変わってきた。 まあ、確かにチクリとする太い毛の感触があったのだが、鏡を見ても、そのころは、手術前より髪の毛が少なかった時期である。
だから、このころは、《鏡を見ながらニヤニヤ》するというより、(少しだけでも、やっと髪の毛が生えてきた。良かった……)というのが正直なところだった。 どうにか手術前の状態には戻りそうだと、ホッとしたのである。

『週刊ハゲ通信』の連載を開始したのは、この植毛体験記事を書いた翌週からだった。むろん、こちらの方はタイアップ記事ではなく一般記事である。
見開き2ページの記事は、学級新聞風にして、記者自身の髪の毛が生える様子もコラムの形で紹介することにした。担当編集者は〝軽いノリ〟が売りのA君に決まった。
そのA君と連載記事の打ち合わせをしていると、

「この梅ガッパ記者のコーナーはいいんですけどね、もし、髪の毛が生えてこなかったらどうするんです?」

といいだした。

「まあ、ソレはそれでいいんじゃないの。一向に生えてこなくてガッカリしました、でも面白いしネ」

「あれ、ずいぶん冷めた言い方ですねぇ。生えなかったら、やっぱカナシイでしょう?」

と、A君はいうのだが、これが当時の正直な気持ちだったのである。

なお、この連載のタイトルを決めるとき、広告と営業から

「〝ハゲ〟という言葉は、ちょっとマズイんじゃないか」

といってきた。要するに『ハゲ』という言葉は、人を不快にさせるから、吊革広告などでチェックを受けるかもしれないというのだ。

「でも、『週刊〝薄い人〟通信』では全然インパクトがないですよ。いいじゃないですか。記者自身がハゲなんだから」

ワタシはこう押し通したのだが、結局、この件については、吊革広告にタイトルを載せるときにはローマ字で『HAGE通信』にするということで決着が付いた。

こんな紆余曲折があったため、第一回目は『ハゲの定義』について書いてみた。ちょっと引き抜いてみると次のようになる。




    《例えば、広辞苑で〈ハゲ=禿〉を引くと、
    〈髪の毛が抜け落ちた部分。または髪の毛が抜け落ちた人〉
    とある。

    この表現では、ツルツルの人がハゲという感じなのである。
    むろん、他の辞典にも〈髪の毛が3分の2以上抜け落ちた人〉なんていう明確な定義は書いてないし、これは医学的見地からしても同様なのだ。

    「あー、日本人の髪の毛は大体8万本から10万本あるんですが、2万5千本以上抜けた場合、私たちはハゲと呼んでいます」

    なんていう医者ももちろんいない。》


    そして、最後はこう結んでいる。

    《さあ、同士のみなさん、ハゲといわれたら、こう言い返してやりましょう。

    「じゃあ、お前、ハゲっていうのはどこからハゲっていうんだよ。きっちり言ってみろよ!」
     
    とね。

    だけどまぁ……やっぱり我々は、黙って耐えたほうがやっぱ無難なんでしょうかねぇ。》




この文章(雑文?)を見てもおわかりのように、当時、ワタシは自分のことを「ハゲといわれる一人」だとキッチリ認識していたということになる。
ところが、これを見たある編集者、一章でも登場した〝かなりキテる〟Mさんが早速こういってきたのである。

「お前さん、あの記事の〝我々〟っていう言い方は本当だろうね。自分だけ毛が生えてオレたちを裏切ったら承知しないよ」

〝オレたち〟というのは、社内のハゲ仲間のことらしいのだが、どうやらMさんはこのワタシにいつか毛が生えることを心配(?)したようなのである。

「そんなネ、ヒトの幸福を妬むような性格だから薄くなるんですよ」

という言葉をグッと飲み込んでMさんにいった。

「大丈夫ですよォ。そうそう髪の毛が生えてくるはずはないんですから。これでもボクはハゲ連盟副会長という気持ちで記事を書いているんです。安心して下さいよ」

「いい心掛けだ。ま、どっちにしたって、毛なんか生えやしないんだろうけどな。うん? ところで、そのハゲ連盟の会長というのは、まさかオレのことじゃないよな」


この連載を開始して、特に髪の毛が薄い編集者の視線はワタシの頭に集まったようだった。正直いって「放っといてくれ」という気持ちだったものの、このころから、少しずつ髪の毛が生え始めたようだ。

連載2回目には、こんなことを書いている。




《梅ガッパ記者の植毛日記2
(9月22日入稿)



    「いや、確かに生えてきてますよォ。前よりなんだか……濃くなったって感じですもん」

    こういうのは本誌・若手編集者のTクン。

    「そ、そうかァ? ま、本格的に生えてくるのは3カ月を過ぎてからだそうだけどな」

    などといいながら、内心はとってもウレシイ。

    「ほら、こうして頭を触るとな、なんかザラザラするんだよ。そろそろ、植えこんだ髪の毛の芽が生えてきてるらしいんだな。ちょっと触ってみるか?」

    「いえ、あの……それはまた今度にしますけど」

    と、Tクン。


    植毛手術をして2カ月を超えるとこんな〝賛辞〟もでてくるのだが、編集部の同じハゲ仲間はちょっと違う。

    「なんだ、前とたいして変わらないじゃないか。ま、そんなもんだよな。ケケケ」

    内心は、気になって仕方がないくせに、〝人の幸せ〟をついけなしちゃうんですよね。だから、アンタ方は毛無しになっちゃうんだっての! フンだ。》




ごく客観的に見ることが出来たT君には、少しずつ髪の毛が生えているように感じられたが、「編集部の同じハゲ仲間」(Mさんのこと)には「前とたいして変わらない」ように見えたというわけである。 これもまた面白い現象だった。植毛の効果が家族にもわかるようになったのは、これぐらいからだった。

翌週の植毛日記には、こんなことを書いた。


《梅ガッパ記者の植毛日記3(9月29日入稿)



    夜、ゴロゴロしながらテレビを見ていると、ノートを持った娘(小4)が後ろに回り、何かやっている。

    「発見、発見。9月24日、〝白い芽〟が生えてきた」

    「な、なんだよ。なにしてんだよ」

    「アタシね、観察日記を付け始めたの。お父さんのアタマの」

    「おい、止めろよ。余計なコトしなくてもいいんだよっ」

    「だって、ワタシ、先生に夏休みの朝顔の観察記録を褒められたんだもん。それに、近所のおばちゃんたちも、すっごく興味持ってるみたいだしネ」

    「ナニ、近所のオバサン?」

    女房に、

    「お前、なにかしゃべったのか!」

    と怒鳴ると、

    「あら、ワタシは、アメリカまで植毛手術に行ったことを話しただけよ」

    ハァ~。最近やけにジロジロ見られると思ったら……。

    「とにかく止めろよ。観察日記は。なっ」

    「イヤよぉ。せっかく何日かつけてんだもん。オトーさんが寝てたときにね。……あ、そうか。わかった~」

    「ナニがわかったんだ、え?」

    「この白い芽は、後ろにもともとあった白髪の芽だったんだ~」


    ワタシゃ、もう泣きたいよ。》




娘の観察記録はこのあと直ぐに終わったのだが、これだってお父さんのいうことを聞いたわけではない。いわゆる3日坊主だったのである。 だが、娘が観察したように、生え始めた頭髪のなかに白髪があったのは確かだった。ワタシは後ろの髪の毛がかなり白髪混じりになっている。 こんな〝白髪のタネ〟もそっくり植毛されたということなのだろう。とはいえ、この白髪も決してマイナスではない。後ろが白髪まじりなのに、 前だけが黒々としていては見た目にも不自然になるからだ。
また、この植毛日記でもおわかりのように、ワタシが植毛したことは、好むと好まざると、家族や職場あるいはご近所に知れ渡ってしまった。 いや、それどころか、週刊誌の読者という不特定多数の人にも公表したわけだが、ある意味で、こうしてオープ&#